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【マゼヴェル】塔の上の賢者

魔王討伐後、別世界に飛ばされてしまい100年近く1人でいたヴェルナーが、なんやかんやあってその世界でマゼルと再会してマゼヴェルハッピーエンドになる話。
※web版原作ルートを下敷きにしているので、公式カプ絡みの内省や描写があります
※色々オリジナルのキャラが出ます
 
 
 
————

 ──森の奥のそのまた奥にそびえ立つ、その高い塔に住むのは賢者か魔族か──
 
 
 
 古い言い伝えいわく隠遁した賢者が住まう塔だとか、近隣の村に住む古老いわく見たこともない生き物が時折窓から入っていくのを見た、あれは魔族だ、恐ろしい近寄ってはならんと怯えながら、世間を知らぬ幼子や村を訪れた旅人に言って聞かせる。
 好奇心にかられた旅人が塔の下に辿り着くも、そこに入り口や扉は無く。苔むした石造りの塔は不気味なほどの静寂に満ちている。
 
 
 
 さて、遥か昔には物見の塔と呼ばれていたそこには、ここしばらく─ざっと百五十年ほど─ひとりの男が住み着いていた。
 
 元々は貴族だったらしいその男の所作は洗練されており、その姿を見る者がいれば、とてもこんな森の奥に隠遁するような人間ではないと一目でわかる。
 手入れのされた長い黒髪をひとつにまとめ、頭頂部の奔放に跳ねた毛先を抑える手には、短く切りそろえられた爪。飾り気は少ないが上質で清潔な衣服を纏い、背筋を伸ばして佇んでいる。
 ところどころ硬くなった手のひらの皮膚を見れば、武器を握る人間だと気づくかもしれない。
 だが、塔のてっぺんにある部屋を訪れる者はもう何十年もいなかった。
 
 太陽が中天を過ぎてすこし、部屋に唯一ある窓からは、春の日差しが差し込んでいる。
 男の前には広い机に置かれた水晶の柱、何枚もの紙、無造作に積まれた書籍、方位磁針が雑然と佇んでいた。窓に向けられた物見の長い筒には透明度の高いガラスがはめ込まれており、光を反射してきらりと光る。
 男はそれを時々覗いては、水晶の柱を確認し、机に散らしていた紙に何事かを書きつける。真面目な顔をしながら少し頷き、裾の長いローブを翻し興味を別のものに移していく。
  
 それほど広くない部屋の奥には、小さめの机も据えられており、紙や書籍の侵略をかろうじて免れている。その一角にコポコポと沸き立ち湯気を立てる薬缶が置かれ、黒い粉が入った濾過装置を添えられたカップが並んでいた。
 ひとつため息をついて、長髪の男はお湯を注ぐために薬缶の持ち手を手に取った。熱湯を黒い粉に少しずつ落としていくと、ぽたり、ぽたりと、濾過された黒琥珀色の液体がカップへと落ちてゆく。
 あたり一面には香ばしい香りが立ち込め、まるでそこだけ異界の楽園のようだった。先程のため息とは違う、香りを楽しんだ吐息が部屋に溶けていった。
 
 
 ぐぅぅ…………きゅるるるるるっ
 
 
 空気の入った皮袋が潰れるようなくぐもった音。誰かの腹が盛大に鳴った音である。
 
 男はすい、と音の聞こえた方に顔を向ける。
 目を細めて注視すると、どうやら窓の辺りに何かいるようだ。鳥にしては珍しい鳴き声だなと思っていたら、窓の枠からはみ出ているのは赤いふわふわとした毛並みと、まだ成長途中らしいふたつの手。
 
 まさか、この高い塔を登ってきたのか? と壁に立てかけていた護身用の長い棒を手に取り、音を立てないようにそろりと近づく。
 
「ご、ごめんなさい……、食べないで!!!」
 
 そこにいたのは十をいくつか過ぎた頃かと思われるような赤毛の男の子だった。
 変声期前なのだろう、子供特有の高い声をあげ、整った顔は泥や苔で汚れ、今にも泣きそうだ。ただ、窓枠につかまっている手は震えているが、しっかりと建材の石を掴み、揺るぎない。
 その姿と、潤んで今にも涙が溢れそうなのに好奇心に満ちた緑の目が、男……ヴェルナーの感情を揺さぶり起こし、久方ぶりに彼は笑った。
 
「……それはお前さん次第だな。とりあえず中に入ったらどうだ?」
 
 
 

 
 
 
「賢者さま、母の病気を治す薬を知りませんか?」
 
 単身で塔を登ってきた勇敢な子供は、勧められた木の椅子に腰掛ける前に、そうヴェルナーに問いかけた。
 ヴェルナーは少し考えたふうで、顔を俯け……ぱちり、と瞬きをひとつ。
 返事を待つ間、その長い睫毛が揺れ動くのに見惚れていた子供は、当のヴェルナーから甘くて薄茶色の茶ではない香りのする飲み物を渡されて目を丸くした。
 
「俺は賢者さまじゃないんだが……とりあえず、ほら、これ」
 
 飲み物は、豆を炒って粉にしたものだが、それだけでは苦いので牛や山羊の乳を混ぜて砂糖を入れてあるらしい。砂糖のような高価なものを入れた飲み物など、その子供はめったに飲んだことがない。果たして貰っていいのか迷う。
 
「甘くしてあるし、遠慮せず飲め。……俺はあんまりこれを甘くするのが好きじゃないから、お前さんが飲まなければ捨てるだけだし」
「は、はい……じゃあ、いただきます」
 
 恐る恐る口をつけ慎重にすすったひとくちは、甘くて少しだけほろ苦い美味を広げ、子供の、知らずにしかめていた表情がぱあっと綻ぶ。
 それを見てヴェルナーも、自分用に淹れた砂糖も何も入れない珈琲を一口啜ってざわついた心を鎮めようとしていた。
 塔を登るときに、顔にまで盛大についていた泥や苔などの汚れを拭いてきれいにしてやったのはヴェルナーだったが、汚れという余計な情報が落ちたその顔は、あまりにも心臓に悪いものだったのだ。
 
 かつての親友であり、己の希望すべてを注ぎ込んだ勇者マゼル。
 七歳のときの事故で前世の記憶を思い出したヴェルナーは、ゲームとそっくりな世界で生き延びるため、彼を魔王討伐に送り出し、その旅を日に影に助けた。
 
(──この子は……そう、マゼルにとてもよく似ているな。いや、年齢はちょっと足りないけど、もうこれ本人では?)
 
 彼を最後に見たのは、突如現れた空間の歪みに引きずられたヴェルナーを引き留めようと必死になった顔だった。心にずっと焼きついている。
 マゼルはいつもヴェルナーを見つけると、光が溢れるような笑顔を向けてきたのに、最後に見たのがそんな辛そうな顔だなんて思わなかったと、こちらの世界に来てから何度も思い出す。
 
 ヴェルナーがあの世界での大きな節目をなんとか終えられたと安堵し、魔王討伐でボロボロになりながらも戻ってきた勇者一行を迎えたとき。
 世界を救い、やり切った顔をした彼の隣には、疲れの中にも輝かんばかりの喜びを讃えた美しい王女さま。
 なんて絵になる2人だ、と見惚れた裏で、胸の奥に押し込めていた諦念にも似た感情が無数の針のように刺さる。
 
(──これでいいんだ。ゲームストーリーのように王様にならなくとも、恋をしたお姫さまと幸せに暮らしましたとさ、なんていうハッピーエンドもいいじゃないか?)
 
(──もともと、モブだった俺があいつの親友になれたのだって破格のものだ。それに、俺にももう守るべき人がいる。あいつによく似た笑顔の……)
 
 過去の思い出を、頭を振って散らして動揺を押し隠し、子供が渡して来た紙を改めて眺める。
 そこに書かれていたのは、医師が診たらしい症状と、今までに試した薬たち。ヴェルナーの記憶には、確かにこれを治す薬の知識があった。前にいた世界でも、この世界でもたまにある病気らしく、過去に読んだ本にもいくつか載っていたものだ。
 要は魔力の暴走が原因で起こる不調。治すにはあの本のアレとアレと……と考え込む前に、目の前の緑色の目がこちらを覗き込んでいることに気づいた。
 
「……これなら知ってる。だが、今は手元に材料がないし、俺は薬師ではないから薬は作れないぞ」
「……! それなら! 僕が材料を取ってきて、薬師さんに作ってもらいます! お願いです教えてください!!」
 
 中身を飲み切ったカップをそっと置いた子供は、懇願するようにヴェルナーへと身を乗り出すが、その熱量と真剣さにやや不安がよぎる。
 
「教えるのはいいが、お前さんが取りに行くのは無茶じゃないか? これとか、魔獣の素材も必要だし……この辺りの商人が持ってればいいんだが」
「ダメなら大人にも頼みます……! 僕も魔獣狩りには参加してますから、伝手はあります」
 
 ……なるほど、この年で魔獣狩りに参加しているのなら、確かに伝手はあるか。だけどなぁ……。
 
 この塔を登りきれるほどには力もあるようだが、まだ声変わりもしていないような子供に無茶をさせるのは本意ではなかったので、ヴェルナーは考え込む。
 
 ヴェルナーが住むこの塔は、石造りのそこそこ堅牢な塔で、階層としては地下1階から地上5階分と屋根裏部屋兼観測所になっている。実際使っているのはこの階と上の屋根裏だけ。他はすべて物置と化している。
 1階部分の扉や、この階と屋根裏の天窓以外の窓は全部潰してしまったし、この部屋の窓も閉じてしまえば侵入禁止の結界が張られるようになっている。
 だから、この塔に入るには、ヴェルナーが窓を開けている時間に外からよじ登らなければならないのだが、5階の窓はなかなかに高い。外壁も雨風にさらされて風化しているとはいえ、継ぎ目は少ない仕様なので正直誰かが登れるとは思わなかった。むしろ侵入者避けに途中で滑ることを狙っているのだ。
 
 塔をよじ登るという困難をひとつクリアしたので、勢いづいているのかもしれないが、この子供が薬の材料を求めて魔獣狩りに行くのはやはり止めるべきだろう。必要になる魔獣はそれなりに強い。それこそ王国直属の騎士団員が複数人いるレベルでないと難しいとヴェルナーは考えている。
 だが、絶対に持ち帰ると意気込んでいるその目を無視するわけにもいかず。
 
「……わかった。ただしお前さんが挑むには手強い魔獣だから、ちゃんと伝手を辿って大人に頼れ。あと、俺のことは周囲に知らせないでくれ。この塔が騒がしくなって、ここにいられるなくなるのは困る。それが約束できるなら教えてやろう」
「わかりました! 手伝ってくれる人を探しますし、あなたのことは黙ってます! あ、でもそうなるとこの知識はどこから得たことにしたらいいんだろう……」
 
 ぱあっとお日様のように笑った顔までそっくりだな、とヴェルナーは思いながら、子供の疑問に答えるために知恵をこらす。
 薬の知識を持った人か、本。それが見つかりそうなところ……。
 
「隣の森の奥に魔女が住んでた庵があるから、そこの本から見つけたことにしたらいいんじゃないか?」
「えっ。そんなのあるんですか!?」
「魔女が亡くなったのが数年前だから、朽ちてなきゃ残ってると思うぞ。ああ、心配するな、俺が彼女を埋葬したから死体とかはないよ。残った物は好きにしていいって言われてるから、めぼしい本はこっちに持って来たんだが、数冊は残ってるだろう。確か残してきた本にもこの薬のことが書いてあったから、それを持っていくといい」
 
 ヴェルナーと森の奥に住んでいた魔女は、たまに会って茶を飲んだりする仲だった。
 ヴェルナーがこの世界に来て、塔に引きこもってからだいぶ経った頃、故郷の森が戦火に焼かれた彼女は隣の森の奥に住み着いた。お互い、隠遁している者として付かず離れず踏み込まずの距離が落ち着く関係だったが、結局ヴェルナーよりも先に逝ってしまった。珈琲豆の存在を教えてくれた恩人でもある。
 魔女は、いつまで経ってもヴェルナーの外見が変わらないことを、精霊か何かだと思っていたらしい。魔女の血筋はそういうものを見る血筋でもあったようだ。
 
「ありがとうございます……!」
 
 安心したようにお礼を言う子供は、本当にマゼルそっくりの動作で、心がぐらついてしまう。
 ヴェルナーはいつだってマゼルの手助けをしてきたし、そのことに対する裏のない嬉しそうな笑顔が本当に好きだった。
 なので、ついおせっかいを焼いてしまう。
 
「あっちの森の境は魔物が多いから送って行ってやるよ。さすがにここからまた外壁を降りるのは俺の心臓に悪いしな」
 
 そう言って、子供の手を取り転移の呪文を唱えた次の瞬間には、とん、と草の生えた柔らかい地面に降り立った。
 
「え……っ!? ええ!? すごい!!」
「転移の魔法だよ。お前さんは知らないか?」
「初めて見ました! すごい、こんな魔法があるなんて!」
「そんなにか? うーん、昔は結構流行ってたと思うんだが……」
 
 目の前の塔の上を見たり、足元を見たり忙しい子供を眺め、時の流れに若干落ち込みながらも、とりあえず隣の森を目指して歩き始める。護身用の槍もとい棒は持ってきた。
 
 さくさくと落ち葉や下草を踏みながら森を歩く。幸い向こうの森までの道はヴェルナーが少し均していたので、歩きやすい。
 とはいえ、森のその道を移動するのはヴェルナーと件の魔女くらいだったから、もう埋もれかけている。ときおり木の間に絡まった蔦や生え過ぎた下草を棒で払いながら進む。
 子供は思ったよりも危なげなくヴェルナーの拓いた道を着いてきた。
 
 

 
 
 
「あの、お礼は何を用意したらいいですか……僕、あまりお金は持ってないんですけど、できる限り集めて来ます……!」
 
 思ったよりも朽ちていた魔女の庵の扉をなんとか開け、かろうじて無事だった本を2人は手に入れた。本を置いていた地下はあまり空気が動かなかったのか、それほど傷んでいなかったので、数冊選びそれを持ち帰ることにした。本を大事そうに抱えた子供が意を決してヴェルナーに問いかける。
 その様子があまりにも真剣で必死だったので、ヴェルナーはその圧に押され軽く慄いたが、なるべく表に出さないようにして、少し考えてから答えた。
 
「……金は俺もあまり使わないからいいよ。塔と俺のことを黙っててくれるのが一番ありがたいな」
 
 ヴェルナーの今の身体は、食事を必要としない。なので食費もかからないし、引きこもりなので服も数着あればいい。この世界に来てから金策を何度か試みたら、思ったよりも多くの金が手に入ったので、今さら子供の集めてきた金を貰うほどではない。なので一番聞いてほしい願いを言ったつもりなのだが。
 
「それはもう約束してるので、できたら別で!」
 
 爽やかに返されてしまった。こういうとこも似てるんだよなあ、とかつての友人とのやり取りを思い出して和む。
 しかし、似ているがゆえに何かしら提案して納得させないと引き下がってくれなさそうだと悟ったヴェルナーは再び考える。
 
「えー……食糧は必要ないしなあ……」
「必要ないんですか?」
 
 まあ、そうだよな、と子供の驚いた声にヴェルナーも頷く。さすがにまったく食べなくても問題ないことまではわからないだろうが。
 困ったなと少しだけ眉根にシワを寄せて考え込んでいたら、当の子供からおずおずと提案される。
 
「えっと、じゃあ、魔法が使えるなら魔石とかはどうですか? 僕、森の奥で取ってきたやつなら結構持ってるから」
「魔石か……」
 
 この世界で取れる魔石は魔力を溜め込む性質があり、様々な用途にエネルギー源として使われているので、その質と量によっては高値で取引されるものも少なくない。
 しかし入手方法が、魔獣や魔物を倒すか、自然の中で長い年月かけて蓄積されたものを探すかで、全体的な流通量が少ないのでエネルギー革命は起こっていないらしい。
 森の奥で取れるものなら容量も知れているし、そこまで高価ではないはずだ。かといって安すぎるわけでもない。手の打ちどころだろう。
 
「そうだな。それをひとつもらおうか」
「はい! 今度厳選して持ってきますね!」
 
 気合を入れて塔を登る仕草をした子供に、そこまでさせるつもりのないヴェルナーはやや困った声で返した。
 
「いや、普通のやつを塔の下に置いててくれればいいんだが……登るの大変だろう。危ないし」
「楽しかったから大丈夫!登るルート見つけたから次はもうちょっと綺麗に登れると思うし」
 
 いや、だから危ないからやめておいてくれと思って言ったヴェルナーの言葉は回りくどかったらしい。やる気満々でこちらを見上げる子供に苦笑しつつ、ヴェルナーは提案する。
 
「下から呼んでくれたら迎えに行くから。……塔をよじ登るのは危ないからやめてくれ」
 
 きょとん、と一瞬何を言われたのかわからないという顔をして、そのあときちんと届いたらしい言葉にはにかんだ。
 
「えへへ……じゃあ、下に来たら呼ぶね!」
 
 
 そんなやりとりの後、ヴェルナーは森の中の魔獣のテリトリーを避けられる道を教えてやり、そこで別れた。数日経てば自分のことは忘れているだろう。
 最後まで子供の名前は聞かなかった。もしかして、と思う期待と、こんなところにいるはずがないという気持ちと。
 
 
 
◇◆
 
 
 
「君のおかげだ、ヴェルナー」

 辛い戦いを乗り越え、確かな絆を確立して並び立っていたマゼルとラウラ。主人公とお姫さまという、俺が望んだ通りのふたり。
 
 
(──なのに、俺は、あの時『ここから逃げ出したい』と一瞬でも強く願ってしまった)
 
(──俺は、俺だってマゼルの隣にずっと居たかった。でもそれは、間違っている、から。わかってる。せめて、立て直させてくれ、視界を閉じて──)
 
 
 心を、次いで全身を強い力に引っ張られて、ぐにゃりと視界が歪み、望み通りブラックアウトを引き起こした。
 ヴェルナーの様子がおかしいことに気づいたマゼルが血相を変えて近づいてくるのをやけにゆっくり眺めながら、マゼル、と呟いた言葉は、果たして音になっていただろうか。
 
 
『──分水領はここ 分岐は成った 進め 分かれたる魂は戻ることなく 分岐の先へ 数多の選択肢へと向かう者に祝福を──』
 
 
 そんな声のような文字のような頭に響いた何かを聞きながら、目を開けて次に見た景色は、この塔の天井。がらんとした石造りの壁の中にひとつだけ窓のある部屋に1人転がっていた。
 もしかしてここは牢獄だろうか、こんなゲームあったよなとヴェルナーはぼんやり考えた。
 
 
 覚醒したヴェルナーは、その部屋から慎重に活動範囲を広げ、自身の置かれた世界を知った。
 当時は1階にあった鉄扉を開け、外に出て、なんとか人のいる気配をたどり様子を伺う。
 着ているものはあまり変わらないようだし、言葉もわかる。だが、地名や歴史はまったく元の世界とかすりもしなかった。
 あらゆる知識を取り込みながら、どうやら自身が元の世界ではまったく使えなかった魔法が使えることを知り、ようやく別世界に転移したのだと理解した。
 そこからはあちらの世界に帰る手段を必死に探した。
 しかし、すぐに気づく。
 不思議と腹が空かず、物は食べられるが出るはずのものが出ない。髪の毛も爪も伸びないし、外見も変わらない。人々の記憶にも残りにくいようで、三日前に会った人に気づかれない。
 どんだけモブ顔なんだよ、俺、とツッコミを入れるも虚しく、ヴェルナーは異世界にひとりだった。
 自分は人間ではなくなったんだろうか、と震えながらも考え、それでも飢餓の心配がないことに不思議な安堵を覚えながら、かろうじて眠ることができた。
 塔の部屋に置いたベッドに転がり、ひとつだけある窓から空を眺めている。
 時間の感覚が溶けていくのを感じながら、ふいに残してきたもののことを思い出す。
 伴侶になる予定だった彼女、家族や友人、家臣たち。
 魔王が討伐された後でよかった、王都も襲撃されたけどみんな無事だったと、ヴェルナーは自分のやってきたことを振り返りながら、自分が居なくても幸せに暮らしていてほしいと虚空に祈る。
 
 そうして、幸せになってほしい人々を頭に浮かべながら、その中に友人でもあるマゼルが見えた途端、すべてをマゼルが占める。
 魔王を倒した後、ラウラときちんと幸せになれたのか。貴族どもの権力争いに巻き込まれていないか。他国から、要らないちょっかいをかけられていないか。
 
(俺が近くに居たら、対処もしてやれるんだが。まさか顔も見れないどころか会うこともできない世界に飛ばされるなんてな)
 
 ヴェルナーは、魔王を倒すため、世界を平和に導くため、ひいては自分が生き残るため、友人となった勇者マゼルに心を向けていたのだと思っていた。
 だが、魔王を討伐し、戻ってきた時。ラウラと結ばれることを当然と思い、自分の気持ちを押し込めていたことに気づいてしまった。気づかなければよかった。あのとき既に将来を誓っていた彼女に、この不実をなんと言って詫びればいいのだ。
 
 それでも。
 それでも、
 
「好きだよ。マゼル」
 
 そう言えていれば、何かが変わったのかもしれない。もはや届かない言葉を、うつろな部屋に響かせる。
 
 
 
 ──飢えもなく、当分死ぬこともなさそうなヴェルナーは、時々そうやって自分の心にささくれを作っては痛みで自分の意識を確認していた。
 まったく健康的ではないな、と苦笑しながら、本日は特に目的もなかったのでベッドに転がったままだ。まだ少し眠気が残っている。
 ヴェルナーのいまの身体は食事も排泄もない代わりに、睡眠がやたら長いことにあるとき気づいたので、眠いときには逆らわずに眠っている。幸か不幸かこの世界ではやらなくてはならない仕事はない。
 ヴェルナーの予想よりも長くこの世界で過ごす年月が過ぎていくが、この眠りがなければ気が狂っていたかもしれない。
 時には目を覚ますとひと月ほど経っていたりして、びっくりする。浦島太郎だ。そのうち三年くらい寝ることになるんだろうかと、馬鹿な考えが浮かんでは消えてゆく。
 
 このまま、何も変わらないままなら、ずっと目が覚めなければいいのにな。
 
 しかし前世も元の世界でもワーカーホリック気味だったのに、変われるものだなと刺激のない部屋の中を眺める。
 天蓋のないベッドに簡素な机、椅子。
 手に入れた本や素材は階下の倉庫に適当に放り込んでいるからこの部屋には物がない。
 視線を逸らせば窓の隙間から日が差し込んで、鳥の声や森のざわめき、たまに人の立てる音も聞こえてくる。
 
 
 

 
 
 
 この世界に来た当初はヴェルナーも精力的に動いていた。
 特に、こちらの世界ではヴェルナー自身にも魔法が使えることがわかってからは、使える魔法の種類を増やしていった。幸か不幸か、飲食にかける時間を勉強に使えたので、習得も早かった。
 四大元素の初級魔法、回復魔法、転移の魔法は特に重宝したが、全体の魔力量はそこまで多くないらしく、いくつか連続で使うと途端にへばってしまう。
 それでも転移魔法を繰り返し使い、馬や馬車を使い、この国の中や、時には外国を動き回った。だが、見知った人はおらず、勇者マゼルなど御伽噺にすら見当たらない。
 文明自体も産業革命のようなものは起こっておらず、前の世界とあまり変わらないようだった。結局世界を回るのに20年弱を費やし、最終的にこの塔を住処にすることにした。
 この塔には書物や物品をコツコツ集めてきたので、ヴェルナーの知る限り一番異世界転移の情報が多い場所だったし、諸外国を回り、この世界にも魔王がいるという情報を得てからは魔王の復活を監視するために、ある程度の拠点が必要だと考えたからだ。
 前の世界では魔王率いる魔物たちに蹂躙されて死ぬことを回避するためにあらゆることを試したが、この世界に来たヴェルナーにはその危機がない。勇者もいなければ、その過酷な旅を支える必要も地位も関係性もない。老いることのない身体で、ひたすら時が経つのを待つのは耐え難く、何某かの目的が欲しかった。
 何年かおきに外の世界へ情報収集しに行くが、人間同士の小競り合いや突発的な魔物襲撃があるだけで、魔王復活の報はどこにもなく、平和といえば平和な世界だ。
 そうやって外界から塔に戻ると、ヴェルナーは深く眠ることが多くなった。いっそ目覚めなければいいんだがなあ、と思いながらも意識が覚醒するとしょうがなく身体を起こす日々だった。
 
 ヴェルナーがこちらの世界に飛ばされて、かれこれ百三十年くらい経った頃、魔力に反応する水晶の柱に反応があった。手で握り込めるくらいの棒状の柱に内包された煌めきは、普段の薄い白青の靄から、鮮やかな紫の点に変化しては白青の靄に戻る。
 強い魔力に反応する水晶の柱は、世界を放浪していた時、剣を携えた魔法使いがくれたものだ。人ではあり得ないほどの魔力を感知した時に、その色が変化するのだと魔法使いは言っていた。もう自分には必要ないからあげよう、とヴェルナーにぽんと渡された。ほんの一時関わっただけの彼が何を考えてヴェルナーにこれをくれたのかは分からない。去り際に手を振るように軽く渡されたこともあり、それ以上引き留めて聞くこともできなかった。
 その後、信頼できそうな他の魔法使いや森の魔女にも見てもらったところ、魔力に反応しているということは証明されていたが、色が変化したことはなかったので、半信半疑で塔に飾っていたのだが。
 
 本当に、魔王が復活したのか。
 
 変化のない己の身体、変わり映えのない日々、ひとりきりで放り出された世界で唯一の目的が明確になる。
 色の変化は年に数回で、まだ完全には復活していないのかしばらくすると通常の魔力の色に戻っていく。魔力の変化はこれで感じ取れるが、では実際魔王が復活したらどうすればいいのか。
 いまのヴェルナーは国にすら属していない存在だ。何ができるのか。水晶を見つめながらその方法をずっと考えていたが、結論は出ていない。魔王の情報自体が少ないのだ。魔王が出現したという記録はあるが、その結果や対策などはほとんど残されていなかった。
 
 ヴェルナーは、自分の外見がいつまで経っても変わらないと気づいたときから、この世界の人々と交流するのは最低限に抑えている。
 物資を集める時も転移であちこちに飛んだ。他人の記憶に残りにくいとはいえ、うかつに素性がバレないようにひと所には長く居られない。この塔に落ち着くまでは、なにかと胃が痛む日々だった。
 飲食を必要としないのに、胃が痛いなんてことがあるんだなとヴェルナーは他人事のように考えながら、魔法で沸かした湯で淹れた珈琲を飲む。特に意味のない飲食は、自分がまだ人間であるということにしがみついた結果だ。珈琲豆がこちらの世界にはあったのは幸いというべきか。
 
 そういえば森の魔女も魔王のことを知っていた。珈琲豆の存在を俺に教えてくれた彼女は、古き良き魔女として、薬草を育てて薬を作ったり、自然や精霊と語らうことを生業にしていた。生家は戦火で焼け出されたが、運良くこの森に居着くことができたらしい。
 森の中に見知らぬ魔力を感じて様子を見に行ったヴェルナーは、すぐに魔女に見つかった。気配をなるべく薄くして近づいたつもりだったので大変驚いたことを覚えている。それから彼女が淹れてくれた茶を飲み、それでまた忘れられるのだろうなと思っていたら、次に会った時にも覚えていたのだからびっくりするしかなかった。
 どうやら身にまとう魔力でも人を見分けているらしく、ヴェルナーのこともそうやって判別していた。ヴェルナーにはそこまで繊細に知覚することはできず、魔力があるかどうかくらいしかわからない。
 魔女にはヴェルナーの纏う魔力はだいぶ精霊寄りのものだと言われ、まあ確かに人間としては不思議な感じだよな、とヴェルナーは己の身を振り返る。
 魔王もそのような魔力の塊らしい。魔王寄りとは嬉しくないなと思いながらも今まで集めたどの国の情報よりも魔王の正体に近い情報を得た気がしていた。魔王の存在自体が知られていない国の方が多かったくらいだ。
 
 そうやって久々の茶飲み友達である彼女の話を聞いていたが、その単語が出た途端、肌をぞわりと悪寒が駆け抜けていった。
 
 
 いわく、魔王は定期的に現れるが、勇者の剣の選別を受けた勇者もまた同時に立つことになる、と。
 
 
 
 
◇◆
 
 
 
 
 マゼルは、塔がある森を擁したこの小国の第三王子である。
 第一王子とは母親違い、第ニ王子は同母の兄弟だが、マゼルの下に二人の王女もいて(この国では女王も立つことがある)そちら二人は第一王子の同母である。
 第一王子が優秀かつ立派に育ったので、下の弟妹たちは王位は彼に任せれば安泰とばかりにのんびりと暮らしている。
 
 しかしそう大きくもないこの国で、世継ぎから遠い身としては、政略結婚の駒になるか、文官になり国の仕事につくか、騎士になって身を立てようかくらいの選択肢しかない。
 さいわい、マゼルは武芸や身体を動かすことが得意であり、十歳を過ぎた頃には大人顔負けの力があったので、騎士を目指そうかと考えていた。
 
 燃えるような赤毛に、緑の宝石のような目。整った顔立ちは数年後の未来が楽しみなほど。
 
 マゼルが育つにつれ、周囲の大人たちはそう言ってマゼルの外見を褒めそやす。
 だが、その目にはマゼルをうまく利用してやろうという欲望が見え隠れしていることを、本人は正しく理解しており、その圧に打ち勝つためにも幼い頃から武芸や学問に力を入れ、騎士団での魔獣狩りにいち早く参加できるよう己を鍛えた。
 
 この世界には、魔力を帯びて凶暴化した獣や生き物が各地におり、それを魔獣や魔物と呼んでいる。魔物と呼ばれるものの多くは魔力が溜まったところに発生し、それは洞窟の奥や海の底など普段は人里離れたところに出現するのだが、魔力に当てられ獣が凶暴化した魔獣はその獣の習性に準じて現れる。ものによっては人家や牧場が襲われるので、必然人里近くで見つければ退治することになる。
 魔獣狩りは騎士団の主な仕事であるし、見習いも実力があれば、ある程度年齢不問で参加できるため、騎士団の登竜門として機能している。
 
 貴族としては野心のない家系の病弱な母と、第三王子という肩書きしか持たない今の状態では、その力に目をつけた誰かの思惑に絡め取られて利用される可能性が高い。早急に信頼のできる団体に属してその団体の庇護を願うことがマゼルの急務で、いちばん早く、現実味のある路線が魔獣狩りからの騎士団への入団だった。
 マゼルは十歳で魔獣狩りに参加し、次の年には見習いとして入団できた。王族とはいえ、騎士団としての上下関係はあるのでそれに従うのだが、幸いにも騎士団には健全な思考の持ち主が多く、将来有望なマゼルをきちんと育てようとする人間が多く存在していた。
 
 それにこの国では『騎士の立てた誓いを不可侵とする』という慣習がある。誓いを立てるには厳しい条件がつけられるが、マゼルはとにかくそれが欲しかった。
 
 
 

 
 
 
 ──マゼルは、繰り返し同じ夢を見る。
 
 柔らかな光が差し込む窓際で、椅子に腰掛けて本を読んでいるらしい人。長く伸ばした黒髪が、姿勢の良い背中のカーブを滑り落ち、まとめた髪留めが白いうなじに影をつくりだす。
 
 その人は、一度もこちらを振り向いたことはなく、ただ静かに本を読んでいる。
 幼い頃からたびたび夢に現れるその人は、見るたびにマゼルの胸中に柔らかな安堵と、ほのかな熱を灯す。マゼルはずっとその人に振り向いて欲しくてたまらなかった。
 声を聞き、顔を見て話をしたかった。できれば本の頁をめくるその手入れのされた手指にも触ってみたかった。
 
 あの人はどんな声で話すんだろう。
 何の本を読んでいるんだろう。
 あの綺麗な髪の毛、触ってみたいなあ。
 
 
 幼いマゼルにはなぜかその人と絶対に出会うという確信があり、そのために長じてから定期的に持ち込まれる無駄な縁談や勧誘を避けるべく、騎士団に入団すると同時に誓いを立てた。
 
 ──私には心に決めた人がいます。我が身とこの勇気は彼の人のために。私のすべてをその人に捧げると誓います。
 
 子供らしい潔癖さだと笑う人もいたが、幼い頃からマゼルを見てきた人たちは、おおむね微笑ましくその誓いを見守った。
 
 
 そしてマゼルは望み通り、その憧れの人と出会った。14歳の春だった。
 
 
 
 
◇◆
 
 
 
 
 マゼルがヴェルナーの住む塔に通いだして数年経つ。
 ヴェルナーがあのとき教えた素材たちを必死で集め、薬師によって作られた薬はきちんと効いたらしく、マゼルの母親は無事快癒したそうだ。
 その時マゼルは嬉しさのあまり塔の外壁をまたたく間によじ登り、寝起きのヴェルナーを驚かせた。
 数日で存在を忘れられるヴェルナーとしては、もう二度と会うことはないだろうと思っていたのと、単純にこの塔をよじ登ってくるものがいるとは思わなかったからだ。
 薬の情報の支払いとしてヴェルナーが貰った、マゼルとっておきのピカピカの魔石は、いつも珈琲を淹れるテーブルの近くにある棚にそっと飾られている。中々魔力のこもったいい魔石だった。
 
 
 そんな年月の中、ひとつ問題も起きていた。
 マゼルがヴェルナーの住む塔に通い詰めるようになると、行先は森としか言わないマゼルを心配した大人たちが、見守りとしてマゼルの尾行を始めた。
 だが、毎回森の途中でマゼルを見失い、夕方陽が落ちる頃に城の自室に戻っているマゼルを見ては肩を落とす、ということもよくあり、開始当初は五分五分くらいであった。
 森の中の尾行はマゼルが成長するにつれて失敗するようになり、夕方には戻ってくるのだから、と最終的に諦められた。森の中には魔女がかつて住んでいた庵があったはずだが、朽ちて土に返ったのか、そちらもみつけられず仕舞いだ。
 ヴェルナーの住む塔や魔女の庵には、魔女がかけたまじないが残っており、普通の人は見えにくくなっていたこともあり、尾行を続けていた城の人たちにはついぞ見つからなかった。
 
 
 
 さて、外野の心配をよそに、二人はすっかり茶飲み友達である。
 ヴェルナーは食事を必要としないが、嗜好品のように味わうことはできるので、マゼルが持ち込んだ茶菓子に珈琲や茶を淹れてやるのがすっかりと習慣になった。あれからマゼルは週三でヴェルナーのもとに通ってきている。
 
「お前さんもここまでよく通うよなあ。転移魔法覚えてくれたのはひと安心だが」
 
 母のための薬ができてからすぐに、声変わりと共にグングン背を伸ばして今はヴェルナーとほぼ視線が変わらなくなったマゼルを見て嘆息する。
 
「そうだね、君が教えてくれるやり方はとってもわかりやすかったから、すぐできるようになって嬉しかったなあ。他の魔法も威力が増したし!」
 
 マゼルは元々魔法が多少使えたが、あまり力をいれて習得していなかったのか、嗜みレベルだった。転移魔法を教えるついでにヴェルナーが色々コツや理論を教えると、スポンジが水を吸い込むように吸収していった。この世界にも勇者スキルとかあるんだろうかと思うほどだ。
 
「僕も来年には成人するし、塔をよじ登っても大丈夫だと思うんだけど、それは許してくれないよね」
「そりゃあな、大人だろうが子供だろうが登ってて落ちたら危ないのは変わらんからな」
 
 身体は大きくなったくせに、まだまだ子供のようなことを言うな、とヴェルナーが珈琲をすすりながら考えていると、珈琲には砂糖とミルク派のマゼルがカップを両手で包み込み、面白そうにヴェルナーの顔を覗き込んだ。
 
「塔の下から呼んだらさ、君が窓から覗いてくれるの、好きなんだ、僕」
 
 はにかみながらそんなことを言うので、あまりの可愛さに頭をぐしゃぐしゃに撫でるところだった、とヴェルナーは自制できた自分を褒めちぎった。さすがにもう小さな子供ではないのだ。
 それよりも、とマゼルの言葉にふと浮かんできた話がある。これは前世の記憶か、とヴェルナーは感慨に耽りながら返事を返す。
 
「塔の上に住んでたお姫様の話みたいだな」
「そんなお話があるの?」
 
 意外にもマゼルは話に食いついてきた。キラキラとした好奇心いっぱいの目で見つめられ、ヴェルナーも遠い記憶を引っ張り出す。
 
「ああ、古いおとぎ話でな。両親と魔女が交わした契約によって高い塔に閉じ込められて、ずっとそこで暮らしていたお姫様がいたんだと。魔女の婆さんはお姫様が長く伸ばした髪をロープがわりにして塔を登り降りしてたらしい」
「魔女の……お婆さんが? 元気だねえ。髪の毛をロープがわりにしてたらお姫様首痛くならなかったのかな?」
 
 もっともな感想をマゼルが返してくるのに苦笑で返しながら、そういえばお姫様じゃなくて普通の女の子だったかな? まあ、大差はないか。王子様と結婚すればお姫様だもんな。などと細かいことを置いてヴェルナーは話を続ける。くるくると、自分の束ねた髪の毛の先を指先でもてあそびながら。これを引っ張られたら確かにな、と。
 
「痛くなりそうだよなあ。そのうち、近くを通りかかった王子様が、窓から見えたお姫様に惚れて魔女のいない隙に通い詰めたんだと」
「……王子様」
「ああ。だがしかしそれもすぐ魔女にバレて、怒り狂った魔女によって二人は離れ離れになったんだ。結局お姫様は遠くの土地で双子を産んで、王子様は目を病んだ」
「ええっ……そんな……ひどくない……!?」
 
 原作版ではたしか夜な夜な塔で逢引というか、ぶっちゃけ性交渉してたらしいので、結果お姫様が妊娠してそれが魔女にバレたということだが、そこはヴェルナーもなんとなく端折っておいた。マゼルにこんな話は早いだろうという謎の配慮である。そんな気配りをしていたので、ヴェルナーはマゼルの顔色が少し変わったことに気づかないまま、おとぎ話をしめくくった。
 
「最終的にはなんとか再会して、王子の目も治り幸せに暮らしましたとさ」
「……魔女にまた会うのを邪魔されたりとかはしなかったの?」
「うん? 二人を引き離したところで魔女の出番は終わった気がするな。まあおとぎ話なんてそんなもんだよ」
「そっか……。ねえ、ヴェルナー」
 
 ひと通り話終わる頃には珈琲も飲み干していたので、カップを片付けようかとヴェルナーが伸ばした手をマゼルがそっと抑えた。どうした?とヴェルナーがマゼルの顔を覗き込むと、マゼルは真剣な目でヴェルナーを見つめていた。
 
 
「僕……、君の王子様になりたい。君はどうしたら、僕と幸せになってくれる?」
 
 
「は? ……え? なに?」
 
 一瞬、時が止まったかと思った。
 すらりと健康的に伸びたマゼルの指が、ヴェルナーのうなじでひとつにまとめられた髪をすくい、毛先に向かってするりと撫で上げ、口元へと導いていく。
 髪先に口付けられたヴェルナーは、そのことよりも、そのマゼルの姿に動揺した。いつのまに、こんな。
 
「君を初めて見た日から、いや、その前から僕はずっと君のことが好きだ」
「ま、マゼル」
 
 ヴェルナーが好きだった、いや、今でも好きな男とそっくりな顔と声が囁く。
 
「好きなんだ、ヴェルナー。君が欲しい」
 
 ゆっくりと腰を支えられ、長椅子に押し倒されても、ヴェルナーは動けなかった。
 あの日押し込めて封印した恋心が、目の前にいる、マゼルにそっくりな男に反応してじわりじわりと染み出している。
 
 ああ、本当に良くないな、これは。百年以上経ったのに、まだ諦められてないのか、俺は。
 
 そう頭の隅で考えていた気がするが、抵抗らしい抵抗はできなかった。
 目の前に差し出された自分を乞い願う瞳に、ヴェルナーは自分のありとあらゆるものを溶かされることを受け入れる。
 間近で感じる体温と吐息が、もうとっくの昔に人肌なんて忘れてしまったはずなのに、同じくらい渇望していたことも思い出してしまった。
 
「僕のすべてを君に捧げる。だからどうか……」
 
 マゼルの顔が近づいてくる。少しだけ幼さを残してはいるが、あの世界で彼の旅が始まった頃と同じくらいの年齢になった彼の。いや、違う、彼ではない
 
 
 お互いはじめての口付けは、そっと触れて、離れていった。
 
 
 
 
◇◆
 
 
 
 
 マゼルは最近ようやく転移魔法が使えるようになった。その魔法を使って、高い塔の上の唯一の窓のそばに転移する。
 
「こんなに無防備に寝て……。鳥とか入ってきたらどうするのかな」
 
 マゼルの想い人は、部屋に置いてある長椅子で眠りこけていた。どうやらベッドまで間に合わなかったらしい。
 いつものように朝の光の中、森を進み、たどり着いた塔の下から呼んだのに、ヴェルナーからの返事がなかった。窓が開いているので居るのだろうと当たりをつけて転移魔法で移動する。無断ではあるが、万が一、怪我や倒れていたら一大事だと考えてのことだ。
 
 彼は人としてはちょっと外れていて、本来人が必要とする食事や排泄は必要なく、十四歳のマゼルと出会った日からちっとも変わらない姿で過ごしている。
 
 そうして今のように、昼となく夜となくよく眠る。きっと眠りが彼に取っての栄養なのだろうう、と結論づけ、いつもは恥ずかしがってあまり見せてくれない寝顔を堪能する。
 マゼルはまだ未成年なので、塔に泊まることは許されていない。だが、若さゆえの勢いで押し進めたことは沢山ある。
 
 
 

 
 
 
「ねえ、ヴェルナー……何考えてるの?」
「え? あー……いや、あっという間にここまで雪崩れこんだな、と思って……」
 
 衝立の奥に置いてあったベッドは、もはや昼も夜も関係なく使われており、今も裸のまま絡み合った事後の気だるさでなかなかシーツから離れられない。
 
 ヴェルナーがマゼルを受け入れた初日は、唇同士が触れるだけのなんとも可愛らしいものだったのに、それからほぼ毎日塔に通ってくるようになったマゼルは、隙あらばヴェルナーと手を繋ぎ、身体を寄せ、頬擦りをしてはキスをしてくる。
 ヴェルナーは、マゼルからの告白に対して何も返答できず、ただ身体の距離だけが縮まっていくことに背徳感を覚えながらも、それを咎めることはできなかった。
 ずっと秘めていた願いがこんな形で叶うとは思わなかったのだ。この世界のマゼルは前の世界のマゼルとは違う人物だと理性ではわかっていても、姿形に性格や声、ふとしたときの動作までそっくりで、どうしても無碍にできない。
 それにヴェルナーとしては、前の世界のマゼルと違う方がむしろ良心は痛まない。
 今目の前にいるマゼルは、あの世界でお姫様と結ばれた彼ではないのだ。ならば、自分がこの世界のマゼルとどうこうしようが問題ないのでは? という考えが心の片隅にうずくまって離れない。前の世界のマゼルが好きなのか、今のマゼルが似ているから好きなのか分からなくなってきていた。
 ヴェルナーだってもうあの世界にいたらとっくに死んでいる年齢なのだ。時が流れ過ぎていて、不貞というにも時効だろう。
 
 ずるい人間の自覚はあるが、鏡を見るたびにヴェルナーの外見もあの時からほぼ変わってないことを確認してしまい、良識ある大人としての意識など、どうしようもなく薄くなっていった。
 
 最後の抵抗として、マゼルを塔に泊めることはなく、暗くなる前に家に帰していた。
 成人前の子に手を出し……具体的には出されたのだが、最終的に止めなかったので抵抗としては甚だ怪しいものであった。
 マゼルはもちろん離れたくないと塔に泊まろうとしたが、ここに通うのを止められたくなければちゃんと家に帰れとヴェルナーに言われ、素直に帰っていった。そのしょんぼりとした背中を見ながら、押しはすごいけど根は素直なんだよなあと、こちらもマゼルを離したくない気持ちと戦っていた。
 ちなみに翌日、マゼルは早朝から来たし、夜には帰されるなら日中ヴェルナーと触れ合おうと、ずっとヴェルナーに引っ付いている。ヴェルナーはマゼルが成人前だからと挿入だけは拒んでいるが、すでに拡張はされているので時間の問題である。
 
「お前さん、なんでこんなことの知識あるんだ……?」
 
 ひとしきり身体を寄せ合ったベッドの上で今日もマゼルの指で丁寧に拡張され、性感帯を発掘されたヴェルナーは、可愛い顔してなんてことしやがると、ここのところ毎日の嘆きを心中で発していた。
 そんなヴェルナーを慰めるように背中を優しく撫でていたマゼルは、少し恥ずかしげに返事を返す。
 
「だって騎士団は若い男が多いから、そういう話もやっぱり多くて。ヴェルナーと気持ちよくなりたいから、僕は色々勉強して……」
「勉強」
 
 勉強ということは誰かとこういうことをしたのか? とジト目になったヴェルナーを見て慌ててマゼルが否定する。
 
「うん。あ! その! 実地とかじゃないから! 僕はヴェルナーひと筋だったからね! そういうのはヴェルナーといっぱいしようと思って、取っておいたんだ」
「そ、そうか……」
 
 なんだかんだと理由をつけるが、マゼルが誰ともそういうことをしたことがなかったということに安堵したのはヴェルナーの方である。マゼルからの好きという言葉に返事を返せていないままだが、もう心中では陥落を認めていた。
 
 
 

 
 
 
 ところで今のヴェルナーには排泄の必要がないので、挿れる穴の洗浄という手間がない分、時間を問わず手を出されている気がするのは気のせいではないだろう。
 飲食もしない排泄もないなんてあからさまに人間ぽくないのに、ほんとにいいんだろうかとヴェルナーが密かに懊悩している隙に、マゼルはとうとう壺で潤滑剤を持ち込んだ。
 
「待てこれ、おまえ、壺って」
「これからも使うし……毎回持ってくるより置いておいた方がいいかなって」
「いやいやいや、ちょっと待て」
 
 目の前の壺はヴェルナーの顔くらいの大きさだが、これを消費しきるにはいったいどのくらいかかるのか。今のペースで行くなら……あれ、ひと月もつかな? という恐ろしい予想を立ててしまい、慌てて打ち消す。
 ベッドサイドの卓に鎮座する、潤滑剤のみっちり詰まった壺。
 ちょっと今更ながら若さと付き合いたての箍が外れた感にヴェルナーが動揺していると、マゼルはそっとヴェルナーの肩を抱き、おでこを擦り合わせるように近づけた。
 
「君が好きで、ずっと触れたかったんだよ? いま、すごく嬉しいし、毎日会いたいし、キスしたい」
「……毎日とか、生活は大丈夫なのかよ」
 
 年下の恋人? のかわいい仕草に少し胸をときめかせながらも、マゼルがここに入り浸って、本来の生活を蔑ろにすることが心配で再びじっとりした目で睨んでしまう。
 マゼルはそんなヴェルナーに苦笑しながら、軽めのキスを頬や額、目の際に落としていく。
 
「今騎士団の方は休暇取ってるから気にしないで。あと半月くらいは休めるかな」
「えっ? 休暇……?」
「うちの騎士団、一生を賭けた誓いに関することは結構融通を利かせてくれるんだ」
「? どういうことだ?」
 
 確かに騎士団に所属しているとは聞いたが、そんな都合のいい組織運営だったのか? 前世も前の世界でも社畜気味だったヴェルナーが、この国の騎士団の組織図を頭に描く。
 あっという間に思索の海に潜ってしまったヴェルナーの頬を両手で挟み、マゼルはこちらの世界へと引き戻すために、くちびるに深めのキスを仕掛けつつ、話を続けていく。
 
「誓いが成るかどうかだからね。……ところで成人したら挿れてもいいってヴェルナー約束したよね?」
「あっ? いきなりなんだ」
 
 くちびるを合わせる隙間を舌でそっとくすぐられたり、下唇の厚いところを吸われたりしてようやくこちらに戻ってきたヴェルナーが、ぼうっとしてる間に聞き捨てならない言葉を拾う。
 マゼルはそんなヴェルナーに対して、ニコリ、と満面の笑みを浮かべた。
 
「僕、数日前に成人したんだ。だから……ね?」
 
 成人。ヴェルナーの時が一瞬止まる。
 この国では男女共に18歳で成人となる。マゼルは確かにあと少しで成人する年齢ではあった。
 
「えっ。お前さんの成人ってもうちょっと後じゃ……あれ?」
「ヴェルナーこないだ七日位寝てたでしょ」
「あっ……あー……あーあーあーなるほど?」
 
 ヴェルナーの感覚ではもうちょっと先のはずだったが、そういえば先日睡眠が長めの時があった、とマゼルの言葉で思い出す。
 七日位眠ることは珍しくはないのだが、マゼルとそういう仲になってからは最長だったので、心配し、痺れを切らしたマゼルに最終的に起こされた記憶がある。
 一人納得していると、マゼルがシャツをはだけさせたヴェルナーの下腹部をそっと撫でてくる。不穏な気配を感じ、ヴェルナーはマゼルの顔を覗き込んだ。
 
「ヴェルナー、勃つけど出ないから……気持ちよくなってくれてるのか心配だったんだよね。後ろの方は、中にまた別の気持ちよくなれるポイントがあるらしいからがんばろうね!」
「いや待てなにそれ。そんなのあるのか……?」
 
 再びマゼルはニコリと微笑み、答えは濁された。
 
 
 結論から行くと、ヴェルナーの気持ちよくなれるポイントは初回から大ヒットしたし、壺の中身はあっという間に半分くらいになった。
 
 
 
 
◇◆
 
 
 
 
「勇者の剣に選ばれたから、ちょっと魔王のところに行くことになったんだ。だからしばらくここには来れなくなる」
 
 マゼルが無事成人してから少し経ったある日、唐突にマゼルからそう告げられたとき、ヴェルナーはガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
 
 この国には勇者の剣というものがある。基本的に王族や貴族にしか存在は知らされていないと、王族の一人であるマゼルはそうヴェルナーに話し始める。
 元々は他国にあったのだが、その国が戦火に巻き込まれたとき、友好関係を築いていたこの国に密かに持ち込まれたのだという。普段は王宮の奥に仕舞い込まれているが、王族や貴族などの魔力を持った者が成人し、ある程度の基準を満たしていればその剣を抜くことができるか試すことになるという。魔力を持つ者に課せられた義務。
 
「……俺がここに居るのは、魔王が復活する兆しを少しでも早く知りたいからなんだ。魔王が、現れたのか」
 
 自分でも低い声が出たなとヴェルナーは自嘲した。魔王の復活は以前から察知していたが、とうとう人間に対してアクションを起こしてきたか。
 魔王と対にになるような勇者の剣。その存在は以前魔女から聞いて知っていた。だが、それが目の前のマゼルと結びつくことはないと思っていた。勇者という存在は、どこまでいってもマゼルと縁が切れないものなのか。
 
「……それを知って君はどうするの」
「無駄かもしれないが、各国に知らせを出す。魔王を……倒さなければ」
 
 この二十年近く、水晶の柱は魔力の色は白青に時折紫が混じる程度で、その変化のなさにヴェルナーも油断していた。平和ボケと言ってもいい。
 
 魔王が仕掛けてくるとしたらいつからだ。いや、前の世界のことを考えればもうすでに動き始めているのかもしれない。なら、今の俺にできることは……だが、動かないという選択肢も存在しない。
 
 ヴェルナーの脳内がめまぐるしく動き、自分の油断の結果にギシリと奥歯を噛み締めるのを見て、マゼルも慎重に口を開いた。
 
「他国へ知らせるよりも先に僕がその問題を解決したら、ヴェルナーは僕とのことを考えてくれる?」
「あ……? どういうことだ?」
 
 ガバリとヴェルナーが顔を上げてマゼルを胡乱な目で見上げる。こんなときに何を言い出してるんだこいつはという顔で見られて、マゼルも少し居心地が悪そうにしている。
 だが、マゼルとしても好きな人が悩んでいるのを放ってはおけない。できれば一緒に解決して、その笑顔が見たいのだ。
 そしてどうやら自分にはそれをするための条件も揃っているようだ。ならばやらない理由がない。マゼルが魔王問題を解決するための理由はとても前向きだった。
 ヴェルナーに向けて、いつもの微笑みで安心させるようにマゼルは言う。
 
「僕、勇者の剣を抜けたっていったろ? 魔王のところに行くのは勇者の剣を抜いた者の義務なんだ。だから僕が行ってくるよ」
「だめだ、マゼル、そんなことしなくていい。俺が別の解決案を考える。お前にまたそんなことをさせるなんて……俺は……!!」
 
 ヴェルナーが本当に珍しいことにひどく取り乱しているのを見て、マゼルはやはりこの問題は早めに解決しなくてはならないと決意した。混乱して勢いづいているヴェルナーはそんなマゼルに気づかず、魔王を倒すために勇者個人に任せきるのではなく、世界全体で連携させる方法を捻り出そうとうんうん唸っている。
 そんなヴェルナーの肩をそっと引き寄せ、体温を移すように抱きしめる。
 
「落ち着いて、ヴェルナー。大丈夫だよ、勇者の剣もあるし。魔物が多いところは騎士団とか冒険者の人を雇うこともできるから」
 
 そうか。そうだ、一人で行くことはない。この世界なら。
 
「っ……! それなら……それなら俺もついていく!」
「えっ!?」
 
 ヴェルナーの言葉にマゼルは意表をつかれたのだろう、びっくりして身体を離し、瞬きを三回繰り返している。
 そうだ、マゼルの旅に俺もついていけばいいのだ。幸い、過去にこの世界の大陸はほぼ回っている、と過去の旅程を思い出しヴェルナーはひとりうなずく。
 
 この世界に来て今の身体になって良かったことは、魔法が使えるようになったことと、飲食排泄がなくなったことだ。疲労は覚えるが歩いている時に寝たことはない。転移魔法を使っていけば、旅も短縮できるだろう。
 
「多少なら魔法も使えるし、お前に会う前に俺もいろんなところを旅をしてきたからある程度案内もできる。そもそも魔王を先に観測してたのは俺だ!ついていってもいいだろ!」
「なんなのその理屈……。そりゃあ君がついて来てくれたら僕は心強いけど。ヴェルナーってば、場所がどこかも、どのくらいかかるかもわかってないのに」
「俺が割り出してやるよ!」
 
 マゼルにしがみついて叫ぶ声は半ば自棄が混じっていたが、ヴェルナーにも見込みがないわけではない。
 世界を一周したときに情報を拾ってはいたが、結局過去に魔王がいた場所は分からなかった。伝承が残っていたと思われる国は焼けて解体されていた。
 だが、それでもヴェルナーが行ったことのない場所はある。どこかしらに情報は残っているはずだし、行ったところにいなかったならそれ以外を探せばいい。
 呆気に取られたようなマゼルのぽかんとした顔に向かってひとしきり考えついたことをぶつけた後は、自分の記憶から魔王の居場所候補を絞り始める。
 
「ふふっ」
 
 唐突に首の近くでマゼルの笑い声混じりの吐息がかかってビクリとヴェルナーは震えた。どうやら思考に集中していて、再び抱き寄せられたのをスルーしていたらしい。
 
「じゃあ、一緒に行こう。ヴェルナー、君とならきっとうまくいくよ」
 
 首筋に顔を埋めて笑わないでほしい、とくすぐったさを誤魔化すように抱きついきたマゼルの背中に腕を回す。触ってみると思ったよりしっかり筋肉が張っている背中をパンパン、と叩いた
 
「よし、じゃあ準備するぞ。とりあえず旅支度と方向の選定だな」
「えっ……その、明日からにしない? 今日はほら、いろいろ話して疲れただろ?」
 
 あっさりとヴェルナーが離れようとするのを慌ててマゼルが引き寄せる。そもそも、真面目な話が済んだらいちゃいちゃしようと思っていたのに、という顔を隠そうとしないマゼルに思わずヴェルナーも噴き出した。
 
 
 

 
 
 
 マゼルが前衛、ヴェルナーが後衛で動く。
 あれから早々に旅支度を整え、マゼルとヴェルナーは魔王を探す旅に出た。道中で魔獣や盗賊に遭い戦闘になった時はそう分担して動く。
 ヴェルナーの槍に関するスキルはこの世界では定義がなかったが、動きに関しては覚えていたらしく、思ったよりも使えたのでホッとした。たまに運動がてら振っておいてよかったとヴェルナーは過去の自分に感謝した。
 スキル自体がこの世界にはないようなので、実際にどうなっているのかは分からないままだが。
 
「マゼル、回復魔法は使えるようになったのか?」
「少しなら。切り傷とか骨折くらいは治せるよ」
「それはありがたいな」
 
 道中で確認することではなかったなと思いながらも、マゼルの魔法に関してはここ数年はたまに話を聞くだけだったので、ついでに再確認しておこうといろいろと尋ねてゆく。出発前は慌ただしく準備していたので確認し損ねていた。
 ちなみに慌ただしくなった理由は「旅に出る前にいっぱいしたい」というマゼルの主張だったが、ヴェルナーもやぶさかではなかったので、わりとギリギリまでそっちに時間を取ったのである。
 
「ヴェルナーは? 魔法自体は結構たくさん覚えていたよね?」
「俺は使えないと思う……たぶん。自分にかけても全然治らなかった。胃とか」
「それは酷使しすぎとかじゃ……あ、回復魔法は自分へかけるとちょっと威力が落ちるって」
 
 この世界でもポーションの類は高いので、庶民に流通しているのは薬が大半だ。回復魔法があればだいぶ助かる、とヴェルナーもうなずく。しかし、あらためてマゼルの戦いぶりを見ると、これはついていくのがやっとではないだろうかとヴェルナーは思う。
 
「お前さん、強かったんだな……」
 
 目の前の茂みから現れた熊くらいのサイズの魔獣の首を一閃ではねるマゼルに、ヴェルナーは嘆息する。前の世界と比較しても遜色ない強さだ。こちらではスキルというものはないはずなんだが。勇者補正だろうか。
 
 こちらの魔物はそこまで多くない。魔王が復活したてだからだろうかとか、まあ多くない方が有難いので一旦そのことは脇に置いておく。それよりも魔物分布のチェックをヴェルナーは進めている。ある程度は冒険者ギルドなどの資料で手に入るのだが、前の世界でも役に立ったし、実地での調査は必須だろうと塔の外に出た時は調べて歩いていたのが役に立っている。
 
「ヴェルナーこそ、槍が使えるのは聞いてたけど、想像以上だったよ?」
「実際使ったのは正直何年ぶりだってくらいだから、俺も不安だったが使えてよかったよ……」
 
 マゼルとの二人旅は正直なかなか楽しいものだ。ヴェルナーは隣を歩くマゼルを見ながら、感慨に耽っていた。
 
 ──ゲームでは主人公としていろんなところを駆けずり回ったが、二次元の世界を眺めてるやつだったし、前の世界ではついていけない分国内で勇者を支えることに集中してたからな。
 
 魔王が復活したといわれてもあまり実感がないくらいの、どこかのんびりした旅になっている。塔を出てから半月くらいだが、今のところ旅路に問題はない。あまり人里に寄れないくらいだが、ヴェルナーは食料を必要としないので、マゼルの分も荷物に入れられる分寄り道が少なくていいとまで考えている。
 マゼルはヴェルナーが人間っぽくないことを気にしているくせに、わざと自虐的にそんな対応をすることにちょっと腹を立てたりもするが、最終的にはその分自分がヴェルナーを甘やかして大事にしよう! とりあえず魔王をなんとかすることから! と決意を新たにしている。
 
「ヴェルナー、あの山を越えることになりそう」
 
 野営の準備をし、簡易の地図を見ながらマゼルと行先を相談する。当初行く先を決めた時は、方角だけ何故かマゼルが確信を持って言うので特に情報がなかったヴェルナーはそれに従ったのだが、理由が理由だった。
 
「剣が教えてくれるんだよ」
「そんな便利機能ついてるのかそれ」
 
 勇者の剣は魔王の居場所を知っているらしい。マゼル以外にはわからないが、ちゃんと向かっていると言うので、ヴェルナーはそれを信じたが、一応持ってきた魔王の魔力に反応する水晶でも確認する。反応が強くなっているので合ってるようだ。紫色の割合が多くなってきている。
 この水晶は百年ほど前に出会った魔法使いがくれたものだが……そういえばそいつも剣を持っていたな? 魔法使いなのに剣も使うのか、と不思議に思ったことがある。もしかしたらあれは過去の勇者だったのかもしれない。
 
 
 
 マゼルと二人、山脈からの星空、砂漠の雨、草原を吹き抜ける風を浴びながら進んだ。それはヴェルナーがマゼルと一緒にやりたいと思ったけど決して出来なかったことだった。
 
 ──ああ、前の世界で約束したなあ。いつか、魔王を倒して平和になったら、二人で世界を見に行こうって。旅の途中で再会した時、俺に見せたい景色がいっぱいあるって嬉しそうな顔で笑うから、俺もつられて笑ってしまったことがあった。
 
 思わぬところで夢が叶ったことに、ヴェルナーはこの世界に初めて感謝した。
 
 
 
◇◆
 
 
 
 どこまでも広がっているようなひんやりとした空間に、魔法で灯した灯りがじわりと広がり白っぽい岩でできた足元や壁を照らす。そこには生き物の気配はなく、マゼルとヴェルナーのたてる足音だけが静かに響き渡る。
 
 勇者の剣が導いた魔王の居城は巨大な地下空洞だった。どこからか空気は循環しているのだろう、冷たい風が渡っていくのが感じられる。
 魔王が棲む場所というから、おどろおどろしい人骨とかでできたような洞窟かと想像していたが、実際は静謐で荘厳という雰囲気が合いそうな場所だった。魔力自体も落ち着いている。
 
「……思ってたのとちょっと違うな?」
「どんなのだと思ってたの?」
「なんかこう……魔物がわんさかいてどろっどろな感じかと」
「それは……行きたくないね……だから止めたの?」
「まあな。違っててよかった」
 
 ラスボス戦だと構えて緊張していた身体から少し力が抜ける。いつものように自然体でいられるマゼルはさすがだ、とヴェルナーは魔法の灯に照らされたマゼルの引き締まった顔に一瞬見惚れた。
 
「もうすぐだって……この辺かな?」
 
 コンコン、と剣の鞘で地面を叩くマゼルを見て、ヴェルナーはラスボス前でこんなに静かなのアリなのか? いきなり落とし穴とか開かないよな? などと考えていた。
 
「ちょっと魔力を流すね……失礼します、いらっしゃいますか?」
 
 剣を床に立てて、両手で柄を支えたマゼルがぶわりと魔力を流す。どちらかというとこれ魔王召喚では? という印象を受けたヴェルナーだが、次いで流れてきた魔力の奔流に思わずのけぞった。
 
 
 圧倒的な質量がそこにあった。
 
 
「ふむ……今代の勇者はそなたらか」
「……あなたが魔王?」
「我は世界の魔力のバランスをとる者、調停者であるが、魔王とも呼ばれる」
 
 例えるなら魔力でできた大岩。前世の画家が描いた、青空に浮く巨大な岩のような。
 水晶にも浮かび上がっていた白青の靄を発しながら、黒と紫が混じり合った影というには立体的なものがそこに存在していた。魔王らしき黒い影からは、男でも女でもない声のような音の振動のようなものが発せられている。
 
「勇者と魔王は相反し隣接する関係であり、魔王はすべからくその世界の魔力の調整を担っている。だから魔力の王と呼ばれるのだ」
 
 ときおり表面に靄がうずまきながらも、その存在はとても落ち着いているように見えた。
 意外に説明してくれるんだな、この魔王……と呑気に考えていられたのは、マゼルにも魔王にも敵対する感情が見られないからだろうかと、ヴェルナーはなんとなく感じていた。ヴェルナーの中にあるイメージの魔王とはどうやら少し違うようだ。
 
「魔王は世界の魔力バランスを保つため、ときに魔物を使い生き物を間引く。勇者はそれをやり過ぎないための安全装置でもあるが、今回の勇者はなかなか早く我のところに辿り着いたな。おかげで魔力をあまり使わなくて済んでおる」
 
 魔王には顔がないので、表情らしきものは測れないが、声には少し満足している感情がのせられていた。対話ができることに油断していたが、得体が知れない存在には違いない。ヴェルナーは少し警戒を強める。
 マゼルは剣を握って地面につけたまま、魔王に問いかけた。
 
「僕は、勇者として何をしたらいいですか」
「うむ。我はこの世界の魔力を調整しながら世界に流す役割を持っておるのだが、定期的にメンテナンスをしないと詰まるのだ、魔力が」
「は?」
 
 思わず声が出てしまったヴェルナーは慌てて口を閉じた。思っていたのとは違う方向に話が転がっていくことに困惑が隠せない。
 魔王はそんなヴェルナーの様子を気にした風もなく話を進めていく。
 
「溜まりきった魔力が凝ると調整のための弁が動かなくなってしまうので、その度にその剣に選ばれた勇者が来て凝った魔力を溶かさねばならない。これは精神を司る魔力と我と、物質を司る剣と勇者の仕事である。魔王自体が魔力の調整弁でもあるゆえ、できれば常に調整を行えばいいのだが、剣は勇者たる人が使わねば意味をなさんし、人は魔力に晒され続ければ狂う」
 
 魔王は流暢に世界の仕組みを説明し始めるが、これは俺も聞いていいものなのだろうかとヴェルナーはつい考えてしまう。勇者たるマゼルは落ち着いたものだ。
 
「そして人は剣があることで大抵魔王とは倒すものと認識するようだな。そこな剣が最初から人と意思疎通できておれば良いのだが」
「しょうがなかろう、私は抜いたものの魔力がないと動けないのだがら」
 
 思わずマゼルの方を見る。正確に言うと勇者の剣のほうだが。
 
「剣がしゃべった!?」
 
 確かにこの剣から声が聞こえたし、マゼルでもヴェルナーでも魔王でもない声だった、と感じたのは間違いではない。思わず声を上げてしまったが、小声に抑えることはできた。
 魔力の塊が喋るのだから、剣が喋っても問題はない……のか……? と自問自答していたが、どうやらマゼルは以前から知っていたらしい。
 
「うん、僕もびっくりした。剣の声は他の人に聞こえないみたいだったし。でも色々教えてくれて助かったんだよ。今はヴェルナーにも聞こえてるんだね?」
 
 どうりで迷いなく魔王の居城探しを進めていく訳だ、とヴェルナーは腑に落ちたが、今までマゼルにしか聞こえていなかった声が自分にも聞こえるのは何故かという説明にはなっていなかったので、ぽつりとこぼす。
 
「聞こえた……が、なんでいまは俺にまで剣の声が聞こえるんだ?」
「我が魔力の補助をしておるゆえな。普段は勇者の魔力がないとこやつの意思は聞こえぬであろう。それが誤解の元でもある」
 
 返答があったことと、それが魔王からだったことにびくりと固まってしまったが、回答があったのでひとまず納得できたのでブンブンと首を縦に振る。
 
「私は適性がある者であれば抜くことは容易だからな。ただ、物理を優先しているので時には魔力が少なめの者が抜く場合もある。その時は……まあ、ほれ」
「目的と使用方法がわからず、我の元まで辿り着けぬ者もおるな。そういう時は我が夢枕に立ったり大変なのだ……もう少し選定方法を厳しくしたらどうだ?」
「そうだなあ、今回は戦争の煽りで持ち出されてしまったから、口伝も書き付けも何もあったもんじゃなかったからな。そこら辺を今代よ、どうにかしてくれないか?」
「あっ、はい。あとでヴェルナーと相談します」
「鞘を作り直していいならそこに書き込んどくか? それか握り手の部分とか……っていやそれはあとで」
 
 魔王と剣が喋ってるな……と遠い目をしながら現実逃避していたヴェルナーだが、魔王と剣に突然話をふられたマゼルがさらにヴェルナーに話を送ってきたので、いつものごとくマゼルの相談に乗ってしまいそうになる。
 すんでのところで、ひとまずそれは後で考えようとヴェルナー自身が軌道修正をはかった。
 
 
 

 
 
 
「ふむ、このくらい溶ければなんとかなるであろう。ご苦労であった」
「もうちょっと溶かしてもよかったのだぞ」
「これ以上溶けたら逆に流れすぎるわ。おぬしはそういうところが適当すぎる」
 
 マゼルが勇者の剣に魔力を流しながら、魔王の指示のもと魔力の凝っているという箇所に剣を当てる。魔力を流しながら相応の力で剣を支えないといけないらしく、それなりに重労働のようだ。
 絵面的には魔王の影のあちこちを刺していくので、ヴェルナーは前世の記憶にあった樽に剣を刺していく玩具を思い出してしまった。スポーンと上から魔王の中身が飛び出したらどうしよう、などどくだらないことを考えたまま、平穏無事に魔王のメンテナンスは終わったらしい。
 
「さて、早めにここまで来たゆえ我の魔力もまだあるな。ついでに望みを聞いてやろう勇者よ、魔力でできる範囲なら叶えてやろう」
 
 世界の半分をお前にやろう、ではなかったが、魔王がそんなことを言い始めた。
 魔力でできる範囲の願いとは一体なんなんだ?とヴェルナーが首をかしげていると、マゼルは何かを思いついたらしく、口を開いた。
 
「ヴェルナーを、人に戻してほしい。魔力の身体から、人の身体にできますか?」
「ああ、そういえばそちらの者の身体はほとんど魔力だな……肉の身体は魔力で編めるから可能である。そなたもそれでいいのか?」
 
 あまりのことに口が聞けなかったが、やはり人とは違う身体なのかとか、人の身体に? そんなことできるのか? とヴェルナーは混乱していたが、マゼルの必死な顔を見て、少し落ち着いた。
 
 ああ、そうか。マゼル、お前さんはそれを望んでいるのか。なら、俺もその望みを叶えたい。
 
「……お願いします。そろそろ人として生きて死にたい」
「よかろう、しばらくじっとしておれ」
 
 魔王から伸びてきた黒い泥のような魔力に全身を包まれる。途端にヴェルナーの身体が重くなり、思わず膝をついてしまった。
 
「ヴェルナー! 大丈夫!?」
「……だいじょうぶ、だ、けど、ちょっと身体が重いな……」
 
 慌てて駆け寄り支えようとしたマゼルがヴェルナーに触れる前に黒い魔力は霧散した。中からはいつもと変わらない姿のヴェルナーが現れたが、本人の感覚的には以前と違うらしい。
 
「今代の勇者と同じくらいの年頃と寿命にしておいたゆえ、励めよ。その剣の説明は任せる」
「承りました……ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
「して、人よ、そなたの望みは何だ? 希望があるなら申せ」
 
 いまのうちだぞ、と魔王が唆してくるが自分にも権利が渡されるとは思わなかったヴェルナーは戸惑う。人ではないものに頼みたいこと……
 
「よろしいのですか……俺が、望みを言っても」
「そなたは勇者の剣を持つ者を対話できる状態で連れてくることに成功したゆえな、それくらいはこの世界から見返りを与えよう」
「……今まではいなかったんですか?」
「半々くらいである。しかし、対話ができぬ者を相手にするのは大層面倒臭いのだ。勘違いして戦いを仕掛けてくる者がほとんどだからな。それに今代の勇者は其方がいなければこちらには来なかったろう」
 
 魔王はうんざりした様子で話すが、マゼルが義務を果たさないことはないだろうとヴェルナーは思っているので、そこは訂正しておかねばと口を開こうとする前に、マゼルが反論していた。
 
「その通りです。僕は勇者の剣を抜いたけれど、ヴェルナーが魔王のことを気にしていなかったら、誰か他の者が同じように抜いてここにきたはずです。僕よりも勇者になりたい人はたくさんいたから」
「えっ、そうなのか? マゼル」
「実際に抜いた人は数人いたんだよ。その中で勝ち抜き戦をして僕は勝ったから……また後で説明するね。今は君の望みの話だよ」
 
 ヴェルナーが初めて聞く、勇者の剣をめぐる争いに目を丸くしていたが、マゼルと魔王に再三促されて、心に引っかかっていたことをためらいながらも口に出す。
 
「俺は……、あの世界に残された友人や家族がどうなったか知りたい」
 
 隣でマゼルが息を呑む気配がする。いままでヴェルナーがこの世界に来る前の自分のことをほとんど話していなかったからだ。遠いところから来たとだけ言い、それ以上を聞いてこないように仕向けたのはヴェルナーで、それはマゼルとの関係を長く続けるつもりがなかったという意思表示でもあった。
 ヴェルナーはマゼルを自分に縛り付けるつもりはなかったので、落ち着いた頃合いを見計らって姿を消そうと考えていた。普通の人とは違う生き方のヴェルナーは遅かれ早かれマゼルと過ごすことは出来なくなるだろうと予測してあまり情が移らないようにしたかった。
 マゼルがヴェルナーのことを忘れなかったことには驚いたが。
 
 それはそれとして、魔王には別の世界からヴェルナーが来たことはわかっていたらしい。
 
「そなたらは元いた世界から、膨大な魔力によって魂の一部が分かれてこちらに流されてきたのだったか。……魂が分離した後、元の世界の身体はそのまま生きて、残りの魂で寿命まで生きたようだぞ」
 
 覚悟をして聞いたつもりだが、どうやら自分は二つに分割されたらしいということに衝撃を受け、そして元の身体も残っていたという話にヴェルナーは頭を抱える。
 
 だから自分の身体は魔力でできていたのか? いや、まてそれより呼びかけは複数形だった。もしかしてそうなのか。
 
「……ありがとうございます。ところで、そなたらということは……俺以外にもこちらに来た者がいるのですか」
「そこな勇者がそうだが?」
 
 今度はマゼルの方に振り向く。マゼルもヴェルナーと魔王に視線が行ったり来たりしている。にわかには信じ難い話だが、これだけ似ているのには理由がある方がしっくり来た。
 
「我らが観測した限り、あちらの世界では、魔王よりも勇者の力の方が育っていたので、人間が溢れ、魔王が倒れたことで世界の魔力の均衡が崩れたようだ。世界の流れという大河が溢れたところに、そなたらが強い意志を持ってその魔力の流れと同調した。それがこちらの世界に魂が分離した原因であろう」
「世界の流れは、川が分かれるように何らかの理由で分岐することがある。そして、それに押し流されることも。そういうことは、ままある」
「こちらの世界に来たのが魂の一部だったゆえ、そなたらはこちらでは不完全なものだった。ヴェルナー、そなたは精神と魔力の存在としてこの世界の魔力を吸収して漂い、マゼル、そなたは魂が適合する肉体ができるまで、こちらの世界の流れに沈んでいたようだが、今代でようやっと適応したということであろう」
 
 途中から剣も話に参加してきた。世界の流れの分岐と魂の分割。こちらの世界に入り込んだ異分子として、魔力の調整を行う魔王と勇者の剣はヴェルナーとマゼルを認識していたらしい。
 
「ヴェルナー、そなたは一度転生を果たした魂だ。なればきっかけを持たぬ者よりも先んじている。こちらの世界の魔力に馴染むのも早かった。強い意志であの世界からの脱出を実行した結果がこれである」
「勇者よ、マゼル、おまえは無理を通してこちらに来た。それゆえ、身体と魂が釣り合うまで時間がかかった」
 
 マゼルにとっては寝耳に水の話だろう。握りしめた拳を見かねて、そっとヴェルナーは自分の手でその拳を包む。すると、少しだけ力を緩めたマゼルがヴェルナーを見て、困ったように笑って手を握り直した。
 暖かい手のひらに、ヴェルナーの緊張もほぐれてゆく。
 
「我らに魂を変化させる力はない。基本は世界の流れに任せ見守るのみゆえ。別の世界に流れ着いたものといえども、この世界に生まれる前に魂は一度漂白される。記憶などは普通残らないものである。そなたの記憶がそのまま残っておるのも、勇者が前の世界と同じ姿になったのも、各々の魂の意思であろう」
「は……、はい…………」
「僕に別の世界の記憶はないけれど、わかります。ヴェルナーがいない世界は、僕の世界じゃないから。見つけてもらえてよかった」
 
 にこり、といつもの笑顔でマゼルが笑うのにつられて、ヴェルナーもゆるりと口元の筋肉を緩めた。
 大体の話は終わったと言わんばかりに、魔王の魔力がゆらゆらと揺れ動き始めた。地中に吸い込まれ、大気に溶けてゆく。
 
「さて、この地下空洞はこの世界で魔力が1番集まるひずみである。ヴェルナー、そなたのいた塔の辺りはここの真裏に当たる。魔力的な意味合いでだ。だからそなたはこちらの世界で最初にあの塔に吐き出された」
「?」
「用事も終わったし、また地を行くのは面倒であろう。あの塔に戻すぞ」
「お、それはいいな。とっととやってくれ」
「えっ」
「あっ」
 
 
 

 
 
 
 魔王の有難い計らいによって、直接塔の上に戻された二人はまず風呂に入って旅の汚れを落とした。ひと月ほどの旅だったが、途中あまり宿に寄れなかったので身体を拭くくらいしかできていない。空気が乾燥している土地とはいえ、汚れはなかなかのものだった。
 
「はー……さっぱりした……このまま寝てえ」
「寝ちゃおっか……また明日以降考えようよ……」
「そうだな……」
 
 そしてひと月ぶりの清潔なベッドで眠った。
 
 
 

 
 
 
 目覚めてまず、腹が鳴った。
 人間の身体というものはこんな感じだったか? とかやってみたかったヴェルナーだが、わりと真面目に腹が減っていたので、横でスヤスヤ寝ているマゼルを起こさないようにそっとベッドを抜け出……そうとして、寝ていたはずのマゼルに腰をがしっと掴まれた。
 
「おはようヴェルナー……お腹空いたの?」
「おはよう。さっき盛大に鳴ったが聞こえたか?」
「うん……僕も空いたし、干し肉とパンなら残ってたはずだからそれ食べようか。あ、ヴェルナーは食べて大丈夫……? お腹びっくりしちゃわない?」
「……それは確かにわからないな……スープ作るか……」
 
 結局、マゼルが来た時用に保存してあった干し野菜の残りを発見したのでそれと干し肉を野営用の鍋で煮たものが出来上がった。この塔に調理施設はないので、石でできた台を床に置き、野営と同じく火を焚いた。薪を使うと煙が上がるので、魔法で火を出している。
 調理場を作らないとなあ……とヴェルナーが考えながら、スープをスプーンで慎重にすするのをマゼルはじっと見ていた。
 
「……そんなに見られると穴が開くんだが?」
「えっ、ご、ごめん!」
 
 何口かすすってみて、問題なさそうなのでそのままゆっくり食べて皿を空にすると、ほかほかと身体が温まっていた。ヴェルナーが満足そうにしている横で、スープとパンを平らげたマゼルも頬を赤く染めている。
 いつも座っていた長椅子に二人して腰掛けて、沈黙のままだ。
 
 マゼルもヴェルナーも、あの世界の二人から分離した魂だった、というのは一晩経つとだいぶ意識に染み込んでいた。
 
 ──そうか、マゼルは、やっぱりあの世界のマゼルだったのか。でも魂が分離して記憶はない……けど、俺に告白したのか……。えっどうしよう。……俺はこのままマゼルの告白に返事をしていいのか?
 
「あー、その。これからどうする?」
「うーん、そうだね、結婚したら新居がいるよね? ヴェルナーは人になったのなら今みたいにお腹も空くだろうし、この塔だと持ち込むの大変だから……どこかいいところ見つけて引っ越さない?」
 
 やけに具体的な提案が出てきてヴェルナーがびっくりしている隣で、マゼルは真面目に候補地を考えているようだ。
 この塔は人が住むにはあまり適さないのは確かだ。出入り口はこの窓しかないし、調理場もない。風呂はかろうじてあるが、水道など引いてないので水魔法で湯を出している。トイレに至っては外に繋がる穴を埋めてしまったので、マゼルがここで用を足すときは開放感のある野外になってしまっている。
 食料を調達するにも水場にも遠く、人として住むにはちょっと難がありすぎる物件である。
 
「あー……いや、そうだなあ。確かにもうちょっと住みやすい家の方がいいな。マゼルはどこか候補あるか?」
「そうだな……旅してきた中だと、温泉あるとことか良くないかな? お風呂入り放題だよ。君大きいお風呂好きって言ってたよね?」
「あっ、それいいな……アリだな。あとは海の見える街もいいな。潮風きつそうだけど、魚とかも食えるし」
 
 この世界を回っていた時に、いくつか温泉を見つけた。この世界にはどうやら火山が点々とあるようで、元いた世界との違いを感じてヴェルナーは孤独感を強めたりもしたが、温泉の誘惑には勝てず見つけるたびに入浴していた。
 そういう記憶を思い出すと、この塔での生活は精神的に不健康だったなと感じる。それでも、愛着がないとはいえない。
 
 ──ここは、俺の後悔と未練とかそういうドロドロしたものが詰まった場所だった。どこにも行けなかった俺の──
 
 そういうのはもうここに置いて、気分転換に別のところに行くのもいいなとヴェルナーは前向きに考える。だって、マゼルと一緒だ。
 ていうかさっきあいつ結婚とか言ってなかったか? 男同士だが??? とマゼルの発言でスルーしていた部分を思い出し混乱し始めた。
 ヴェルナーの機嫌が少し上向いた雰囲気を感じたマゼルが顔を覗き込むと、予想と違ってなんだか混乱している。
 
「どうしたの、ヴェルナー。何かまずいことがあった?」
「あ、いや、その……、さっきだな、お前さん結婚とか言ってなかったか?」
「うん。僕、ヴェルナーと結婚するつもりだよ」
 
 聞き間違いではなかった、とマゼルの言葉を必死に読み解こうとするが、少しして徒労だと気づいたヴェルナーが素直にマゼルに問いかける。
 
「えっと、男同士だよな?」
「うん。この国は性別は関係なく結婚できるよ?」
「そ、うなのか」
「もしかして知らなかった? 先代の国王が法改正したんだけど……」
「すまん、その頃もう引きこもってたし、全然知らなかった」
 
 引きこもっていたといえども、ヴェルナーは定期的に外に出ていたのだが、どうやらその御触れは聞き逃していたようだ。人との触れ合いを最小限にしていた弊害がここに出た。
 
「結婚。結婚かあ。何すればいいんだ?」
 
 ヴェルナーは自分がマゼルのことを好きなことはもう認めている。だが、その気持ちを本人に伝えて、それ以降何をしたいかはまったく考えていなかった。
 旅に出るまでの間にしていた肉体的接触は、気持ちよかったしまたしてもいいと思うが、なにせ百年以上世捨て人として過ごしていたし、そもそもこの世界での目的が魔王以外になかったのだ。身体が人に戻ったとして、したいことが見つからない。
 困惑しています、という声音を隠さずに虚空に向かって問いかけるように吐き出してはみたが、いい案がぱっと浮かんでこない。
 マゼルはそんなヴェルナーに苦笑しながら、椅子から立ち上がり、ヴェルナーの足元に跪く。
 
「じゃあ、改めて。ヴェルナー僕と一生一緒にいてください。僕たちは、別の世界でも出会ってたみたいだけど、いまの僕は君が一番大事で、できればずっと隣で笑っていてほしい」
 
 ヴェルナーの白い骨張った手を、マゼルの長くまっすぐな手指がそっとすくう。
 
「……それでいいのか?」
「いいよ。僕と一緒に幸せになって」
 
 あ、あと! できればその、前みたいに触ったりしてもいいかな……と顔を赤らめながらも必死に伝えるマゼルに愛おしさがつのる。ヴェルナーは自然に微笑んで、マゼルの手を取った。
 
「マゼル……俺もだ。俺もおまえが好きだ。ずっと、一緒にいたい」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
塔の上には賢者が住んでいた。
 今はもう誰もいない。

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